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「冬虫夏草・続真定点観測」

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わが懐かしの「斐光園」④。

 さて、くだらないゴシップとかで置きっ放しの話題に戻ろう(笑)。

 「斐光園」は、さっきのグラウンドのすぐ横なのですが…。

 「斐光園」を語るには、八幡浜人なら知っている人物に触れなければならない。



 二宮忠八。
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 「二宮忠八」は八幡浜の誇りである。

 忠八は、幕末に八幡浜の矢野町に生まれた。


 23歳の時(香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊の上等兵時)、秋季機動演習の帰途の折らしい。

 彼は、昼食をとりながらカラスの群れが飛ぶのを見て航空力学の原理を発見し、発明のヒントを得た。


 明治24年、25歳の時。

 丸亀練兵場で“烏型模型飛行器"(ゴムを動力とし、プロペラは4枚羽根)の飛翔実験に成功。

 第1回目に5間余(10m)の距離を飛んだ。

 これは動力による人工翼が空中を飛行した 日本最初 の出来事であった。


 その翌年、人間の搭乗できる人力飛行機の構想を練った。

 そして、玉虫から学んだ原理に基づき設計し、 複葉の“玉虫型飛行器"の作製に着手した。

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 戦時下(日清戦争)の後、飛行機の必要を痛感し設計図を作成。

 2度、飛行機の採用ならびに専門家による研究で完成するよう、軍に願い出たが却下された。


 退役後、来月甲斐がライブを行う京都府八幡町で、石油発動機つき飛行機の設計に取り組んだ。

 ところが、 1903年(明治36年)アメリカのライト兄弟が、有人飛行実験に成功した。

 二宮忠八は、ライト兄弟の成功を聞き、男泣きに泣いたらしい。

 そして、独力完成を断念したのだった。

  製作中の飛行機をハンマーで破壊。以後、飛行機の研究から一切身を引いた。

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 ※忠八が晩年過ごしていた家屋を、京都府八幡市から移築復元したものらしい。
by jec-y | 2012-01-22 09:26 | 僕の話